昭和五十一年一月十日 朝の御理解
御理解 第六十八節 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはなら ぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげ ても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせる にはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせ んでも、人にものを言うとおりに拝め。
信心させて貰う者の大事な要点を教えておられると思うです。
信心には辛抱する事が一番大切であると、三代金光様が教えておられますが、その辛抱の内容というものがです、例えば、雨が降るから、風が吹くから、またこういう事情、ああいう事情でと、いう様な私はそこを貫く事が特に徳を受ける修行じゃと仰せられる。この身に徳を受ける修行という事、いわゆる貫くという事。
昨日、金光青年という本、本部の方から毎月送って来るのですけれども、それに信心のおし頂こうとするという見出しで、見浦という先生が書いておられます。「終戦、そして、天皇陛下がマッカ-サ-の所に何回もおいでになった」頼まれておられる時のその模様と一緒に、マッカーサーの【 】に、言われたり、書かれたりしたもの、またはその時に一緒に、まあついておられた人の話が出ております。戦犯という事ではもう、天皇陛下が第一番に書いてあったそうですね。戦犯の第一号でおありになった。ところが、天皇陛下の一生懸命のお姿にふれた時にその考えが、マッカーサーの考えが変わってしまった様子がこまごまと書いてあります。ちょっと少し読んでみましょう。
「私は国民が戦争逐行に当たって、政治、軍事両面で行ったすべての、決定と行動に対する、全責任を負うものとして、私自身あなたの代表する諸国の裁決を委ねるためにお訪ねした。
私は大きい感動に揺すぶられた。死を、これはマッカーサーの思いですね、私は大きな感動にゆすぶられた、死を伴う程の責任、それも私の知り尽くしている【 】に照らして、明らかに天皇の責任に帰すべきでない責任を引き請け様とする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。
私はその瞬間、私の前に戻る天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士である事を感じとった。随行して行った通訳の人の話としてある本には、しかし今、日本には食料が欠乏していて、八千万の国民が困窮しているから、どうか国民が餓死せぬ様に食料の心配をしてやって頂きたい。それは最高司令官であるマ元帥でなければ出来ない事である。そして用意しておられた包みを出された。
これは個人名義の財産目録であるが、これをあなたに預けるからよろしく頼むと言われた時と記されて著されている。マッカーサーの最高司令官という命令的な口調は陛下という敬語に変わった。」という事でございます。もう普通でならば亡命したり、自分に責任はないと言ったり、言い訳をするところであるけれども、言えれば言えれる実際の事でありながら、一切は自分の責任としてそのマッカーサーが煙草を差し上げる時、天皇陛下の手はガタガタ震っておられるという事であります。
いかに一生懸命、命懸けだと言う思い感ずるですね。同時に最後にその全国民の食料の事だけは餓死せぬ程度にどうぞお願いしますと、言っておられる。しかも、自分の財産はほとんど投げうって財産目録を預けておられるという。本当に今の教団の中に、神と皇上との大恩をという様な事が今のこの教団の中から、そういう御神訓などは適当ではないという様な事を申しますけど、本当にやはりいろいろ書いてありますが、国民がその時に受けたおかげ、もうそれこそ涙をのんでです、沢山の閣僚達がです、もうともかく一人残らず討ち死にの覚悟でございますから。戦争だけは続けさせて下さいと言うて、もう皆がお願いしたのを、天皇陛下がそのことを受けられずに問題は国民が助からなければならないという様なところも出ております。だから、私はこれは神様へ向けてもやはり同じ様な事が言えると思うですね。
最後のところに拝むにも大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言う通りに拝めと、有り難そうに心経や大祓を上げても心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ。柏手も無理に大きな音をさせるには及ばぬと、いう風にありますが、例え人に物を言う通りという事のその中味がです。やはり一心でなからなければならない。真でなからなければならない。でなからなければ通じない。また心経や大祓を上げるにも心に真が無ければというてございます。その真を打ち出しての祈り、祈念でなからなければならない。それには雨が降るから、風が吹くからといった様な事で信心を鈍った様なそうした心で願ってもおかげにならん事がわかります。
その勇気が必要なんです。信心にはそういう勇気が必要、同時に真がまたは一心が必要なのです。それは、これは人間同志の間でもいろん判断をするという時にです。それこそ猫なで声で頼まれたってかえって不快な感じがしますよね。それは願いの言葉は素朴であってもそれは言葉は足りなくっても、真というものはです、それこそ戦犯としての呼び捨て的な言葉で天皇を見たり、相対しておってマッカーサーがです、その天皇陛下の真心に触れられた時にです。いわゆる陛下という敬語に変わったという事であります。
私は本当に信心の神髄というのはそこにあると思うです。神様が見直して下さるほどしのものが私共の信心にはなからなければいけません。ただ、金光様のご信心は、別に形式とか気張ってどうという事じゃないとただ、人にものを言う通りに心の中で言うたって拝んだって良いというその内容というものには、まず雨が降るから風が吹くからといった様な【 】腰でです、ではいけないという事がわかります。
勇気が要るのです、戦犯第一号として、本当に死刑の宣告をお受けになるかわからない様な中にです、自分のいわば、逃げようとはなさらずに、堂々と自分がそれを背負われ様とする、態度、まずこれに感服しておる、そして国民の上に思いを寄せかけておられる。これは日本の皇室のいわば、代々の天皇陛下の場合はいつでもそうですね。国民(くにたみ)というか国民にはっきりいつもお心を置いておられるそうです。
あれは仁徳天皇ですかね、税金をお取り【 】いうならば民の家の煙の立つのが少ないのを見て、税金を取られなかったり、延ばされたといった様なそういうた様な御精神の上にです。やはり、天皇というのは国の長としての役を勤め抜いておいでなのですから。何と言うても神と皇上との大恩という事は、決して私は間違っているとは思われませんですね。
私はこれを読みながらやはり天皇のおかげで、やはり日本国民は助かったというても良いくらいです。閣僚の取り巻きの連中はです、全員【 】戦死してもです。もう、長崎広島の原爆を以てされるならば狭い日本は瞬く間につぶされてしまいます。それでもやると周囲は皆、言うたそうです。それこそ涙を流して頼んだそうです、天皇陛下に、けどそれを天皇陛下はお受けにならなかった。その事だけでも日本国民がその時に助かった事を思うただけでもね、やはり神と皇上との大恩といったことは決して当たらないのじゃない、当たっていると思うです。
まあ天皇陛下の御勇気とそれから実意を以て、本当に欲得を話して願っておられるという事。私は今日の六十八節にそういう姿勢とか、態度が神様の前には必要だと、ただ金光様に祈りの言葉を知らんでも、人に物を言う様に済みまっせんお願いしますといった様なそんな言葉で良いのだけれども、その内容たるものはまず第一勇気がいると、言い訳する様な事ではいけないという事が、一番初めに雨が降るから。風が吹くからえらいと思うてはならんという、そこを貫くという勇気が信心には必要であるという事ですね。
真がなければ神に嘘をいうのも同然じゃと、赤裸々に真を、いわば表に現して心に真を思うての祈りでなからねばいけない、願いでなからなければならない。なるほど、節をつけたり、それこそ涙声でです、どうぞお願いしますと。そして御祈念が終わるとケロッとしちゃる。神様だけには本当に、それこそ猫なで声で頼む様な御祈念をする人があります。だから神様はかえって気色が悪かろうと思いますね。これが、頼む時だけと思うてね。ですから、心で思うただけでもです、あの真であり、それが勇気、元気な心というですか、そこを通り抜けてからの、私は節をつけたりせんで人に物を言う通りに拝めと仰るという事は、そういう内容を持ってのそれであるという事です。
私共がただ、願いよる、おかげを頂いとりますけど、果して雨が降るから風が吹くから、というところのいうならそこを抜けきる、勇気が心の中にあるか否か、一心の真という事を近頃頂くが、本当のことをしかも一心におかげを頂いておるか、現在合楽で行われておる、大祓信行これなんかは、私は今日のこれにピッタリくる様に思います。本当に神様が受けて下さらんはずはない。なぜかというと、それは無条件ですから。天皇陛下のいうならば無条件というそのそれに当てはまると思うです。ただ、一心不乱に大祓いを奏上させて貰う、それは金光教お道の信者として当然のいわゆる勤行つとめですね、信行、金光様の信心する者のそれはもう勤めとしてです。神様に奉るところの御祈念、いうならそれを大祓信行という。無心にしかも一生懸命にしかもただ、自分のよい時というだけでなくて、これだけはというて日々の信行を繰り返すならばです、神様に聞き届けて頂かないはずがない、なるほど神様がいうなら生き生きとその活力を発揮して下さる事が、思います。いよいよ、この大祓信行を大事にして行かなければならんという事であります。人にものを言う通りに拝むという、その内容というものを聞いて頂いたつもりです。まず、第一貫く心という、また雨が降るから風が吹くからという、えらいと思わんですむという、いわば勇猛心というかね、いうなら元気な心というものが。まず最初に内容としているということ、ただ<楽な>ここんところを、あれしますと、本当に御祈念なんかでも金光様の信心はあれを唱えるとか、あれを形式とかいわずに、ただ人に物言う通りに拝めと頂きますと、いと簡単な様にあるけれどもその前のところに一心がなければ神に嘘を言う様な真がなければ嘘を言うも同然とか、または神参りをするに雨が降るから風の吹くからとか、というところを頂いてそこをわからせて頂いての人に物言う通りに拝めとあることを知らなければならんと思うですね。どうぞ。